今日は鹿児島県の、
霧島市にある舞鶴城跡にきています。
舞鶴城跡(まいづるじょうあと)は、
現在は国分小学校と国分高校があります。
島津義久公の居城・舞鶴城跡の朱門
跡地に建っている、
国分小学校と国分高校の、
国分(こくぶ)は以前の地区の名称です。
以前は♪花は霧島 たばこは国分♪
鹿児島おはら節に歌われていましたが、
現在は霧島市となっています。
城山を背にした場所に、
天守閣を持たない、
「屋形造り」として造営されました。
現在は石垣と堀を残しています。
舞鶴城跡は城の建物は無く、
学校前の道路に面して、
高さ3mで長さ200mの石垣があります。
そして石垣の前には、
堀がありそこには二つの石橋が、
昔の面影を伝えています。
城の石垣や堀は小さいですが、
薩摩に多い外城(とじょう)制度の、
城の雰囲気が感じられました。
薩摩の外城制度とは、
「人をもって城となす」といって、
大きな城を築くより、半農半武士を、
領内各地に置いて防備を固めました。
島津義久公が城主でした。
舞鶴城の城主は島津義久公です。
島津義久公(よしひさこう)は、
島津4兄弟の長男です。
あの戦国武将の、
勇将で名高い島津義弘の、
お兄さんにあたります。
りました。
朱門がありました。
舞鶴城跡で目につくのが、
朱門と呼ばれる赤い門です。
この朱門は形が小さいくて、
「朱」の色で塗られていますので、
城を守る門ではなさそうです。
元々は、
奥向きに通じる門を、
ここに移築したのではと思われます。
でもこの朱門があるおかげで、
舞鶴城跡の雰囲気が、
一気に高まりました。
舞鶴城跡は政治の中心になりました。
舞鶴城は、
島津義久公が亡くなった後も、
三女の亀寿姫が過ごします。
その後に城の横に、
地頭の舘が置かれました。
そして政治の中心になっていきました。
現在の国分の基盤が、
この地から始まりました。
そんな歴史に思いをはせながら、
舞鶴城跡を見てきました。
舞鶴城跡(まいづるじょうあと)
鹿児島県霧島市国分中央2丁目5-1
問合せ 0995‐45‐5111
駐車場 有り
JR日豊本線国分駅から車で約3分
鹿児島空港から車で約25分
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