薩摩川内市高江町の江之口橋は岩永三五郎が薩摩で作った最後の石橋。

 

江之口橋と呼ばれる石橋を見にきました。

江之口橋と呼ばれる石橋を見にきました。

薩摩川内市の高江町は、
川内川に面した水田地帯です。

そこの八間川に架かる、
江之口橋は160年前に作られた石橋です。
薩摩川内市の有形文化財に指定されました。

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薩摩川内市高江町の江之口橋は岩永三五郎が薩摩で作った最後の石橋。

江之口橋(えのくちばし)は、
今から160年前に作られた石橋です。
今でも使われている橋なのです。

江之口橋は、
橋の長さが17.3m・幅が3.4mの、
二連アーチの眼鏡橋です。
 

肥後の石工・岩永三五郎が作りました。

肥後の石工・岩永三五郎が作りました。

江之口橋を作ったのは、
肥後の石工・岩永三五郎です。

岩永三五郎は、薩摩藩に招かれて、
県内各地に多くの石橋を作っています。

大きなものでは、
鹿児島市内を流れる甲突川に、
架かる五大石橋が有名です。

この五大石橋の内、四つの石橋は、
石橋公園に移設されています。
 

市の有形文化財に指定されました。

この江之口橋は、
岩永三五郎が肥後に帰る際に、
最後に作った橋と云われます。

岩永三五郎が手掛けた石橋で、
薩摩川内市内に現存するものは、
この江之口橋だけになります。

そのために、
この歴史的に貴重な眼鏡石橋は、
薩摩川内市の有形文化財なのです。
 

江之口橋は薩摩川内市の有形文化財です。

江之口橋は薩摩川内市の有形文化財です。

なぜ江之口橋がつくられたのか。

ではなぜこの江之口橋は、
高江の町に作られたのでしょう。
その理由を紹介しますね。

 

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昔の高江町はいつも水浸し。

江之口橋が出来る以前の、
高江町の水田は、雨が降ると、
いつも水浸しになっていました。
 

水の被害を鎮めるための水神様。

水の被害を鎮めるための水神様。

それは高江町が、
山間部に面していたために、
山から出た大量の山水が流れ込むのです。

そのために、大雨が降ると、
水田が何日も雨に冠水して、
大きな被害を出していたのです。
 

江之口橋の隣りには川内川が流れます。

江之口橋の隣りには川内川が流れます。

八間川を人工的に作りました。

そこで薩摩藩は、
山水の被害をなくすために人工的に
八間川(はっけんがわ)を作りました。

八間川ができると、
大量の山水は八間川に集まり、
川内川に流れ込んだのです。

その結果、
高江町の水田は、
山水で覆われなくなったのです。
 

八間川を作り川内川に雨水を流しました。

八間川を作り川内川に雨水を流しました。

八間川(はっけんがわ)は、
川幅を8間(14.5m)にしたことから、
この名前が付けられました。

江之口橋が架けられました。

薩摩藩の時代は、
江之口橋の周辺が中心地でしたので、
往来を行うためには、
八間川に橋が必要だったのです。

八間川に架けられた江之口橋は、
160年経った今でも、
生活道路として使われています。

また江之口橋の前は、
八間川水辺の楽校公園として整備され、
文化財の橋を学べる場所になっています。
 

薩摩藩の頃は武家屋敷がある中心地でした。

薩摩藩の頃は武家屋敷がある中心地でした。

江之口橋で思ったこと。

江之口橋を見て思ったことは、
人工的に川をつくり、
山水の被害を抑えた先人の知恵です。

八間川の治水工事や、
江之口橋の架橋など、
薩摩の土木技術の高さに驚きました。

また肥後から招いた、
岩永三五郎を起用するなど、
暴れる水をなんとか収めようとする、
当時の薩摩藩の思いを感じました。
 

江之口橋で先人の知恵と努力を思いました。

江之口橋で先人の知恵と努力を思いました。


 
江之口橋(えのくちばし)
鹿児島県薩摩川内市高江町
電話 0996-20-2344(川内歴史資料館)
駐車場 八間川水辺の楽校公園駐車場
JR川内駅から車で役10分
川内駅から県道43号線を西に進む、
高江郵便局先の仮屋橋を右折。

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