野田郷武家屋敷通りは約1キロに渡り続く武家門や玉石垣に江戸時代の面影が残ります。

 

野田郷武家屋敷通りに行ってきました。

野田郷武家屋敷通りに行ってきました。

鹿児島の歩き方で来たのは、
出水市の野田麓(のだふもと)です。

野田麓(のだふもと)には、
野田郷武家屋敷通りがあります。

野田武家屋敷通りの、
武家門玉石垣が続く道には、
江戸時代のたたずまいが残っています。

 

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野田郷武家屋敷通りの場所

野田麓があるのは、
鹿児島県出水市野田町です。

おれんじ鉄道の野田郷駅前の、
県道368号線(荒崎田代線)を進み、
国道504号線を渡ります。

渡ったら野田小学校前から、
1キロ程続く県道368号線が
野田郷武家屋敷通りになります。

野田郷武家屋敷通りは県道368号線の約1キロ

野田郷武家屋敷通りは県道368号線の約1キロ

野田麓とは

野田麓とは、
薩摩藩が領内各地に置いた、
武士が暮らす集落の一つです。

領内に110程あった麓で、
肥後藩と近い場所にあった、
野田麓と出水麓は重要視されていました。

国境の野田麓と出水麓は重要視されました

国境の野田麓と出水麓は重要視されました

野田小学校には、
地頭仮屋(じとうかりや)という、
麓の役所が置かれていました。

麓の周りには、
町人が暮らす野町や農民のがあり、
武士はこの地を統治して、
肥後藩との境を守っていました。

野田郷武家屋敷通りとは

野田郷武家屋敷通りは、
熊陳馬場(くまじんばば)
藩政時代は呼ばれていました。

熊陳馬場は、
薩摩街道の出水筋にあたり、
参勤交代の主要道路でした。

野田郷武家屋敷通りは薩摩街道の出水筋でした

野田郷武家屋敷通りは薩摩街道の出水筋でした

また普段は、
武士の鍛練の場として、
利用された通りでした。

 

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様々な武家門が並びます。

野田郷武家屋敷通りで、
江戸時代の面影を残すものは、
様々な武家門と玉石の垣根です。

野田武家屋敷通りの武家門と玉石垣根です

野田武家屋敷通りの武家門と玉石垣根です

武家門の先にあった、
武家屋敷は現在はなく、
武士の子孫の方々が暮らしています。

武家門の先には武士の子孫が暮らします

武家門の先には武士の子孫が暮らします

でも武家門や玉石垣根を見ると、
武士の暮らしを彷彿させます。

武家門を見て薩摩武士に思いをはせました。

武家門を見て薩摩武士に思いをはせました。

武家門から今でも、
薩摩武士が現れてきそうですよ。

武家門から薩摩武士が現れそうです。

武家門から薩摩武士が現れそうです。

大日の仁王像がありました。

野田郷武家屋敷通りの、
途中には仁王像がありました。
阿吽(あうん)の2体の仁王様です。

阿吽の2体の仁王像がたっています。

阿吽の2体の仁王像がたっています。

この仁王像は、
大日の仁王像と呼ばれる像で、
永林寺にあったものです。

大日の仁王像は永林寺にあったものです。

大日の仁王像は永林寺にあったものです。

永林寺は、
明治の廃仏毀釈で廃寺になりました。
鹿児島にはお寺が少ない理由ですね。

廃仏毀釈の影響があった仁王像です

廃仏毀釈の影響があった仁王像です

阿型の像には、
廃仏毀釈の傷跡が残っています。
吽型は無事だったようですね。

野田郷武家屋敷通りを見守る仁王様

野田郷武家屋敷通りを見守る仁王様

野田武家屋敷通りに行ってきました。

今日は野田麓にある、
野田武家屋敷通りに行ってきました。

通りに面した、
武家門や玉石垣根を見ながら、
薩摩武士の暮らしに思いをはせました。

野田郷麓には、
島津藩主島津家の菩提寺の、
鎮国山感応禅寺がありますよ。
鹿児島で最も古い禅寺の観応禅寺で御朱印
野田麓の感応禅寺入口の仁王像

野田麓の感応禅寺入口の仁王像

野田武家屋敷通り
鹿児島県出水市野田町上名地内
問合せ 0996-63-2111
(出水市役所野田支所)
おれんじ鉄道・野田郷駅から徒歩5分
駐車場 通り専用の駐車場はありません

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鹿児島まち歩き街案内で紹介します。
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鹿児島市にある鶴丸城の御楼門

鹿児島市にある鶴丸城の御楼門

 

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