鹿児島県南さつま市の、
加世田麓(ふもと)に来ています。
目的は加世田麓のまち歩きと、
麓にあるお城の跡を見に来たのです。
お城とは別府城のことです。
別名を加世田城といいます。
市街地にある山城跡を紹介しますね。
加世田麓は日本遺産に認定。
麓(ふもと)とは薩摩藩が、
領内の各地に置いた武士集落です。
麓の数は約110あったといわれます。
これは外城(とじょう)制度と、
呼ばれ、麓に住んでいる武士達が、
外敵の侵入に備えていたのです。
今でも昔の面影が残る12の麓が、
文化庁の日本遺産に認定されました。
加世田麓もその一つです。
麓の町並を歩きます。
加世田麓には藩政時代の、
武家屋敷や武家門が残り、
昔の町並みが見られます。
水路沿いに武家門がある、
石垣やイヌマキの生垣が続く、
麓の町並をゆっくりと歩きました。
麓を見下ろす高台に、
別府城(加世田城)跡があり、
麓の中程に城の入口がありました。
大手門の階段を登ります。
別府城の入口には案内坂があります。
城の大手門に登城する坂道です。
さっそく登ってみますね。
いつもながら城跡を目指して、
登城するときはワクワクします。
登りつくと門柱の跡がありました。
現在は学校跡地と公園になっていました。
でも別府城址はありましたよ。
別府城の歴史を紹介します。
別府城の説明板がありました。
ここで別府城の歴史を紹介しますね。
平安時代の末に、
平家一族の別府五郎忠明が、
加世田を治めていました。
別府五郎忠明が別府城を築き、
最初の城主となりました。
以来別府氏が300年間、城主をつとめます。
別府城跡には、
別府五郎忠明の碑がありました。
地元の別府氏への思い入れですかね。
薩洲島津家が城主となります。
その後、応永27年(1420年)に、
薩洲島津家の島津久豊が、
別府城を落とし城主となりました。
薩洲島津家は、
出水地方の島津の分家ですが、
この地を120年間治めました。
その後に薩洲島津家の、
島津実久は分家ながら、
島津宗家に謀反を起こします。
島津忠良が三州を統一します。
そこで島津家の中興の祖と、
呼ばれた島津忠良(日新公)が
激しい攻防の末に別府城を落とします。
その後に島津忠良は、
三州を平定し薩摩を統一します。
以後加世田麓で善政をしきます。
島津忠良公の晩年は、
日新公と呼ばれ人々に慕われました。
麓の竹田神社に祀られています。
明治に加世田小学校になる。
時代が明治36年になると、
この地に加世田小学校ができます。
元々、別府城には、
福寿城、尼ケ城、中之城の、
三つの城がありました。
それぞれの城をならして、
加世田小学校の敷地にしました。
現在は公園になっています。
現在は加世田小学校は、
別な場所に移転しましたが、
学校の門が残っています。
また城の大手門への坂は、
そのまま小学校への入口になり、
昔のおもかげを残しています。
その後に、
現在は公園になりましたが、
尼ケ城公園に名残りがありました。
別府城からの景色。
別府城から周りを見渡すと、
加世田川が流れています。
城の防衛の役目をしていました。
大手門の場所から、
麓の町並を見下ろします。
山城として低いなと思いました。
それは小学校と公園にした時に、
大規模な工事で山を削りました。
元の山城はもっと高かったそうです。
加世田城攻めの六地蔵塔。
城から麓に降りると、
加世田城(別府城)の攻防を、
物語る六地蔵塔がありました。
島津忠良公が、
加世田城を攻め落とす時に、
多大な犠牲者を出したそうです。
そこで忠良公は、犠牲者を、
敵味方を区別することなく、
供養するために建てさせたそうです。
この六地蔵塔を見て、
当時に思いをはせてしましました。
別府城(加世田城)にいきました。
今日は加世田麓にある、
別府城(加世田城)に行ってきました。
山城の遺構はありませんでしたが、
城址碑や六地蔵塔を見て、
別府城跡を感じてきました。
別府城跡(加世田城跡)
鹿児島県南さつま市加世田武田
電話 0993-53-2111(南さつま市文化課)
駐車場 竹田神社近く
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