鹿児島の山城の歩き方です。
今日は日置市にある山城、
南郷(なんごう)城跡を訪ねます。
戦国時代以前は、
日置南郷(へきなんごう)と、
呼ばれていました場所です。
南郷城は、
築城された時代の地名の、
呼名が城の名前になりました。
南郷城跡の場所
南郷城跡がある現在の地名は、
鹿児島県日置市永吉といいます。
今の地名から永吉城とも呼ばれます。
藩政時代には、
薩摩藩が各地に置いた武士集落、
永吉麓(ふもと)が置かれていました。
南郷城は永吉小学校の、
裏の山にあります。
南郷城の案内板に沿って進みましょう。
駐車場があります。
永吉小学校の前から、
学校を右手に見て坂道を進みます。
途中にある南郷城跡の碑を、
見ながら坂道を進みますと、
突き当りに南郷城の看板が見えてきます。
看板の横には草が生えた、
駐車スペースがありました。
南郷城跡には駐車場があるのですね。
まずは地図で確認します。
まずは南郷城跡の解説を読んで、
地図で確認してみましょう。
日置(へき)南郷に築いたのは、
桑畑氏で戦国時代になると、
島津氏とで南国城の争奪戦が行われます。
勝利した島津忠良は、
薩摩の覇権を握ることになる、
歴史の舞台にもなった山城です。
民家の横が登り口
看板に向かって右側の坂道が、
南郷城跡への登城口です。
登り始めの道は、
民家の畠の横の道です。
次第に坂が急になり、
山城の登城道の雰囲気になってきました。
坂道を登るといつも思う事。
南郷城の登城道は、
1本道なので道に迷うことはないと思います。
ただ、普段の運動不足がたたり、
登るにつれて息が荒くなります。
でも昔の人は元気だったのでしょうね。
合戦の時は、
重い鎧に身を包みながら、
この坂道を登っていたのですから。
掘割の壁で思う事。
さらにすすむと、
坂道の両側には、
壁がせまる場所があります。
掘割の跡ですかね。
いかにも人工的な壁に感じます。
こんな時にいつも思うことは。
こんな壁も削ったのでないかと、
鹿児島の土は火山灰が固まった、
シラスの土で加工しやすいですからね。
まあそのために、
鹿児島はよそに比べて、
山城が多い理由と言われますけど。
本丸の下に到着しました。
案内板と地図が、
所々にありますので、
これがあると安心して登れますよね。
いよいよ主郭の下に来ました。
狭い階段のような場所は、
虎口(こぐち)ではないかと思います。
虎口の狭い所に集めて、
上の主郭から弓の狙い撃ちです。
おお、何だか怖いですね。
主郭(本丸)に到着です。
無事に主郭に到着しました。
南郷城の本丸(高城とも呼ばれます)です。
下から約10分程で登りました。
本丸には木が生えていました。
城があったのは約500年程前です。
その頃はここに館があったはず。
今では大きな木が生えてこの場所に、
本当に館があったのかと思う程です。
本丸の周りには土塁があります。
本丸の周りにあるのは、
人工的に土を盛った土塁(どるい)です。
南郷城を防備していたのでしょう。
天文2年(1533年)の争奪戦では、
城主の桑畑孫六が狩りで留守の時に、
島津忠良が城内に突入したそうです。
城主の油断に乗じて、
戦上手の島津が奪い取ったそうです。
今立っているこの本丸は、
突入した時は大変だったろうなと思いました。
ここでの戦いを想像してしまいました。
山城めぐりを面白くするのは、
豊かな想像力かもしれませんね。(?)
本丸は見晴らしがよいのです。
本丸の突端に行くと、
見晴らしがとても良かったです。
遠くに吹上浜と東シナ海が見えました。
戦国島津氏の居城・亀丸城の方向です。
いつもここから島津氏の動向を、
監視していたのでしょうね。
さらに左に目をやると、
藩政時代には仮屋(役所)が、
置かれた永吉麓の家並みが見えました。
永吉麓の六地蔵塔
南郷城を下って、
永吉麓にあったのは六地蔵塔です。
南郷城の争奪戦では、
両軍に多くの戦死者を出したそうです。
そこで島津忠良が、
敵味方の区別なく供養するために、
この六地蔵を建てたと云われます。
南郷城に行ってきました。
南郷城は曲輪(くるわ)ごとに城があり、
本城(本丸)、東の坂、根子城、
野頸城(今は果樹園)があります。
今回は本丸だけの城攻めでした。
また機会があれば、他の曲輪の、
城攻めもしたいと思います。
南郷城(永吉城)
鹿児島県日置市吹上町永吉宇都
駐車場 有り
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