明治の外務卿の寺島宗則の生家は阿久根市の脇本にあります。

寺島宗則の生家の目の前にある寺島です。

寺島宗則の生家の目の前にある寺島です。

鹿児島県阿久根市の脇本
古くからの漁村が点在する田舎の町です。

その脇本に生まれた方で
明治維新とその後の日本政府で
活躍した偉人がいるのです。

その方は寺島宗則(てらしまむねのり)
その生家を紹介しますね。

 

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寺島宗則ってどんな人物。

その前に寺島宗則って、
どんな人かを説明しないといけませんね。
西郷さんのように有名ではありませんけど。

寺島宗則は、
薩摩藩の医師、通訳、外交で、
活躍した人物です。

島津斉彬のお医者さんも務め、
集成館事業に必要だった、
洋書を翻訳した人です。

英国留学生を引率しました。

また薩英戦争の後に、
薩摩藩英国留学生を、
五代友厚とともに引率しました。

薩摩藩英国留学生の銅像は、
若き薩摩の群像というモニュメントが、
JR鹿児島中央駅にあります。
若き薩摩の群像についてはこちらから。

寺島が引率した薩摩藩英国留学生達。

維新後は、
日本政府の外務卿となり、
不平等条約の改正に努めました。

という偉い方が、
この脇本村(以前はそうでした)
から輩出したのです。

寺島宗則の生家の場所。

その寺島宗則が育った生家は、
槝之浦(かしのうら)という、
小さな入り江にあります。

脇本三文字を、
そのまま進みますと、
立派な山門の西徳寺に出ます。

西徳寺の先にある橋を渡ります。
橋を渡ってすぐに左に折れると、
寺島宗則の生家があります。

西徳寺の山門は歴史を感じさせます。

西徳寺の山門は歴史を感じさせます。

生家は海の前です。

生家の入口には案内板があります。
その先にある古い家が生家です。

寺島宗則が育った家の案内板です。

寺島宗則が育った家の案内板です。

生家の屋根は、
阿久根を襲った台風の被害で、
青いシートがかけてありました。

普段は、生家は閉ざされて、
近くに住む子孫の方が、
管理のために来られるそうです。

寺島宗則の生家には台風の被害。

寺島宗則の生家には台風の被害。

前の海には寺島が浮かぶ。

寺島宗則は、以前は、
松木弘安(まつきこうあん)と、
名乗っていました。

その後、英国留学から、
帰国後に寺島宗則と変えました。

生家の前にある寺島から名付けました。

生家の前にある寺島から名付けました。

寺島は、生家の前に浮かぶ、
小さな小島、「寺島」から、
付けたと云われています。

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すぐそばの寺島宗則の生誕地

生家から橋のたもとに戻り、
小さな路地を入ると、
坂の途中に豊受神社があります。

生家の前にある豊受神社です。

生家の前にある豊受神社です。

豊受神社の先に、
寺島宗則が実際に生まれた、
屋敷跡があるのです。

豊受神社には、
寺島宗則翁の生誕地の、
石碑が建ています。

神社には寺島宗則誕生の碑があります。


神社には寺島宗則誕生の碑があります。

屋敷跡からも寺島が見えます。

登りつめた所にある屋敷跡は、
石垣で囲まれています。
寺島宗則生誕地の柱があります。

屋敷跡の伯爵寺島宗則誕生地の柱。

屋敷跡の伯爵寺島宗則誕生地の柱。

屋敷跡の庭に植え込みがあり、
きれいに手入れがされていました。
意外と広い庭です。

屋敷跡はきれいに手入れされています。

屋敷跡はきれいに手入れされています。

そこからは、
海に浮かぶ寺島が見えていました。
夕方近くになった寺島は幻想的でした。

夕方の寺島は幻想的です。

夕方の寺島は幻想的です。

脇本って奥が深いのかも。

正直、こんな田舎から、
偉い方が出たものですね。

でも思ったことがあります。
それは、近くの西徳寺の山門も、
田舎にしては立派過ぎます。

また豊受神社や、
屋敷から受ける雰囲気も、
何だか由緒がありそうです。

自分が生まれたからじゃないけど、
脇本という地域に、
何か奥深いものを感じてしまいました。

後日、寺島宗則の生家は整備されました。
そして地元の方が作る「寺島会」の、
おもてなしがあります。こちらをどうぞ。
寺島宗則記念館で寺島会の紙芝居で寺島宗則の事を楽しく学んだ。現在は整備され寺島宗則記念館になりました。

寺島宗則の生家
鹿児島県阿久根市脇本8

豊受神社
鹿児島県阿久根市脇本

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鹿児島まち歩き 街案内で紹介しています。

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