鹿児島県の北部の町、出水市。
武本という地区にある山田昌厳
(やまだしょうがん)の墓を訪れました。
訪れた一行は、
鹿児島検定のグランドマスターの面々。
今日は、フィールドワークで来ました。
フィールドワークとは、
鹿児島の史跡や歴史ある場所を、
実際に現地に行って勉強することです。
藩政時代の名地頭・山田昌厳のお墓の場所
実は、山田昌厳のお墓は、
薩州島津家(さっしゅうしまずけ)一族の、
お墓があって、その先にあります。
フィールドワークでは、
出水の歴史では重要な場所である、
この二つのお墓に訪れたのです。
出水の武本地区を走る国道328号線の、
西の口信号のそばの脇道を入ると、
そこに二つのお墓の案内があります。
薩州島津家のお墓がありました。
入口から坂道を登っていくと、
まず薩州島津家のお墓が見えてきます。
出水の田畑や山並みが見える、
小高い丘の上に、
薩州島津家の一族の墓がありました。
薩州島津家は、出水五万石を、
140年間、初代から七代にわたり、
支配した、島津家の分家です。
さらに坂道を進みます。
薩州島津家のお墓で手を合わせた後、
フィールドワークの面々は、
さらに坂道を進みます。
余談ですが、
グランドマスターのメンバーには、
年配の方々も多いのです。
それでも、
歴史への興味が強いためなのか、
坂道も喜々として歩いて行かれます。
山田昌厳のお墓に着きました。
山田昌厳のお墓は、
小高い丘の登り切った場所にあります。
周りを木々に囲まれて、とても静寂です。
お墓には、お花が飾られて、
周りは良く掃除がされていました。
山田昌厳は地元で大事にされていました。
グランドマスター一同、
山田昌厳とその夫人のお墓に、
手を合わせました。
山田昌厳とは。
山田昌厳は、寛永6年(1629年)に、
出水郷の第三代目の、
地頭(じとう)として赴任してきました。
地頭とは、藩主が任命する、
統治地区に住みながら政治を行う役人。
その中では最高の権力者です。
山田昌厳は、政治力にすぐれ、
出水の産業振興に力を注ぎました。
非常にすぐれた政治家だった訳です。
出水兵児の名を遺した。
また山田昌厳が人々に慕われたのは、
その善政にあったとされます。
人々に慈愛をもって接していたそうです。
また人々に勤倹尚武の徳をすすめました。
つまり仕事につとめ励み、
節約を重んじ、武勇をたっとぶことを、
すすめたわけです。
山田昌厳が言うのですから、
いやがうえにも出水の士風は高まり、
出水兵児の名が起こります。
出水兵児(いずみへご)とは。
出水兵児(いずみへご)とは、
鹿児島県の出水地方の、
男性をさす言葉です。
薩摩隼人(さつまはやと)と同じ、
気骨のある精神性の高さを、
持つ男を呼ぶ言葉なのです。
その出水兵児が生まれる、
風土を作ったのが、
山田昌厳の教育姿勢でした。
地理的な条件もありました。
出水は薩摩藩の国境にあります。
よって古来から重要な場所でした。
そのために薩摩藩は、
最強の武士団を住まわせていました。
それが現在の麓地区の、
武家屋敷群として残っています。
重要な場所を守らせるために、
そこに住む武士の士気を高める、
山田昌厳の教育は必要だったわけです。
出水兵児の精神は今でも。
いずれにしろ、300年以上も前に、
山田昌厳がいなかったら、
出水兵児の精神は育たなかった。
今でも、時代を越えて、
出水の青少年の教育に、彼の教えが、
生き続けているのでしょうね。
山田昌厳の墓が、
人々に大事にされているのを見て、
そう思ったのです。
山田昌厳(やまだしょうがん)の墓
(薩州島津家の墓のとなり)
鹿児島県出水市武本2893
問合せ 0996-63-2111(出水市役所)
駐車場 有りません
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