戦国島津詣のツアーで、
戦国島津氏の治めていた永吉にある、
天昌寺(てんしょうじ)跡に来ています。
天昌寺跡には、
島津家きっての美男子と言われた、
島津豊久(しまずとよひさ)が眠ります。
天昌寺跡の場所
天昌寺のある場所は、
鹿児島県日置市吹上町の永吉です。
国道270号線を南下して、
国道沿いのかめまる館を左折して、
田園風景の道を進みます。
車で約3分程走ると、
天昌寺跡の看板が見えてきます。
天昌寺跡は公園のようでした。
道路から石垣の道を進むと、
天昌寺跡の駐車場に到着します。
天昌寺跡は背後に山があり、
広い敷地の手前には、天昌寺の、
案内板や顕彰碑がありました。
奥には墓石が見えますが、
多数の墓石は整然と並んでいました。
掃除もされて公園のようでした。
天昌寺とは。
天昌寺は曹洞宗のお寺で、
永吉(ながよし)島津氏の菩提寺です。
もともとは元中(げんちゅう)2年に、
石屋禅師(せきおくぜんじ)が建立した、
妙通寺と言っていたお寺でした。
関ヶ原の戦いで戦死した、
島津豊久の墓が建てられてから、
天昌寺とし菩提寺になりました。
それ以来、天昌寺には、
永吉領主とその家族の墓があるのです。
島津豊久とは
島津豊久は、
島津4兄弟の4男・島津家久の長男で、
後の日向佐土原城の城主です。
関ヶ原の戦いが始まると、
叔父である島津義弘とともに、
西軍として徳川家康に挑みます。
西軍が総崩れになると、
叔父の義弘公に撤退を進言し、
義弘公の身代わりで戦死します。
佐土原から永吉に移住します。
城主の島津豊久が亡くなると、
遺臣たちは、日向の佐土原から、
ここ永吉に移住します。
妙通寺に豊久公の墓をつくります。
永吉島津家の島津忠栄が、
菩提を弔うために天昌寺としました。
ひおきPR武将隊がお迎えです。
私達戦国島津詣のツアー参加者を、
天昌寺で待っていた方々がいました。
それはひおきPR武将隊の、
島津家の戦国武将の方々です。
たくさんの鎧武者にビックリです。
皆さんは日置市観光課が中心に、
結成されたひおきPR武将隊です。
戦国島津の故郷日置を盛り上げます。
島津豊久公は外人さんでした。
ひおきPR武将隊の中で、
島津豊久役はどなたか聞いたら、
手をあげたのはなんと外人さんでした。
英語圏の方を日本に招き、
実際の英語を教えてくれる、
ALT(外国語指導助手)の方でした。
英語を教えながら、
戦国時代も学んでいるのですかね。
武者姿がとてもお似合いですね。
この外人さんの島津豊久が、
色々と紹介してくれますよ。
島津豊久公の墓前です。
永吉島津氏の墓地の奥にある、
一段高くなった場所に、
島津豊久公のお墓がありました。
他の領主たちのお墓と違って、
大きな石の墓標という感じでした。
ただ一番大きくて、
奥まった場所にあって、
花が手向けられていました。
その横には妙通寺の石屋禅師と、
歴代住職のお墓もありました。
歴代の領主と家族の墓が並びます。
豊久公のお墓の前には、
歴代の領主と家族のお墓が並びます。
そのお墓が整然と置かれ、
数が多いのにもビックリしました。
それぞれの領主の墓石には、
装飾が施されています。
豪華な墓石も多いでした。
墓石以外にも癒されます。
花に乗った石仏もありました。
とってもおだやかな表情に、
心が癒される感じでした。
また地蔵の塔もありました。
なかなか歴史文化的価値が、
ありそうなものですかね。
永吉南郷会に守られています。
天昌寺跡の永吉島津家の、
お墓で思ったのはお掃除がされて、
とてもきれいな事です。
これは永吉南郷会の皆様が、
行う清掃活動のおかげです。
豊久公を顕彰する会も行うそうです。
また島津豊久公没後四百年の、
記念碑を建てるなどの活動で、
天昌寺の跡地を守っています。
天昌寺に行ってきました。
戦国島津詣のツアーで、
永吉島津家の菩提寺の、
天昌寺跡に行ってきました。
島津豊久公の墓前で感じたのは、
豊久公が今でも地域の方々に、
慕われていることでした。
ひおきPR武将隊のお見送りでも、
戦国島津氏を慕う方々を見ながら、
天昌寺を後にしました。
天昌寺跡(永吉島津家菩提寺)
鹿児島県日置市吹上町14884-6
問合せ 099-248-9432(日置市)
駐車場 有り
JR鹿児島中央駅より車で約50分
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